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今 このことを改めて書きながら もう少し違う感じがふと思いおこる。 “力(ちから)” という処に心が動く。座談力も聞法力も・・・いただきもの・・・と。 果たして 私にそのようなちからが ありましょうか。もし座談や聞法において(他においてもですが) 座談している(出来ている) 聞法している(出来ている) わが力を思うた時 あてにした時 驕り高ぶりよこしま 驕慢の私と知る。 座談さしてもらう中に 聞法さしてもらう中に・・・ ちからとなって はたらいて下さり、そのはたらきを感じさしていただくのだと思う。 我がちからを あてにせず・・・ 我が思いを あてにせず・・・ ただただ 如来の本願を仰がしていただく・・・今そのことを あらためて感ずる。 このいただいた私というこの身は 弱いようでしぶといモノガラ。たすけていただきながら 自らたすかろうと必死にもがいている気がする。いただいたちからを 我が自己中心の厄介とも云える煩悩のおかげで 大いに生かそう生きようとしている気がする。 いただいたものを ちゃーんと生かそう(?)とするはたらきが(をも) 備わっている私にしてくださっている・・・・気がする。それもこれも お念仏に出遇う お念仏もうすために 今がある気がする。どんなに大騒ぎしても その一点に・・・。 どーも まとまらぬが 感じたままを書いた。また 整理されてくるだろう・・・わたし。 |
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